『現代お笑い論 PART6』 ―動物化する<ポスト・第5次お笑いブーム>

前回(『PART5』)は、「1分間ネタ」=「ショートネタ」番組の興隆が、「一発屋芸人」的方法論(1.強烈なキャラ、2.あるあるネタ、3.決めゼリフ)を採用する芸人が増えると同時に、ネタにおける手数の増加=「ハイテンポ化」をももたらす、といったようなことを述べました。


今回は、そのことを踏まえた上で、視点を芸人から視聴者の側に移して、そもそもなぜ「1分間ネタ」=「ショートネタ」が視聴者にウケるようになったか、ということについて考えてみたいと思います。

まず、「キングオブコント」の仕掛け人でもあるTBSの合田隆信プロデューサーの発言を引用してみたいと思います。

ショートネタブームにはちょっと考えさせられますね。昔は一発ギャグと言えば、すかしネタというか、「一発ギャグ=ウケない」という前提でした。一発ギャグをやれっていうのは、滑れっていう意味でもあって、その滑った状況を楽しんでいたんだと思います。少なくとも5、6年前までそうでした。今は立派な一つのネタになっている。
(中略)
僕は以前、『ガチンコ!』とか押し付け一辺倒の番組をやっていて、「視聴者をテレビの前に座らせて、肩をつかんで押さえつければ視聴率を取れるんだ」と考えていました。でもテレビが一方的に送っているものを見続けてくれるほど、今の視聴者はお人好しではない。今はそういう圧力がテレビ番組から出ていると嫌がられます。ショートネタの流行はそういうことの表れだと思う。見たくない1分は見なければいい。でも、すぐに次の1分が来る。見て損はしないし、3人に1人、好きな人がでてくればいいからね。『爆笑レッドカーペット』は一つの典型でしょう。ショーケース的な芸人の出し方をしていてあまり押し付けがない番組ですからね。

※引用先=「『キングオブコント』の仕掛人、合田プロデューサーに現在のお笑いブームの本質をズバリ聞いた!」日経トレンディネット2008年10月29日)


合田さんは、テレビが一方的に送ってくる情報を視聴者が楽しむ時代が終わり、視聴者が自分自身で見たい情報を取捨選択をするようになったということを、「ショートネタ」番組が興隆した原因として挙げています。

この意見の延長として、「お笑いテクニック.com」というインターネットサイト内のブログページ「お笑いテクニック・ブログ」内の記事は、「ショートネタ」ブームの理由として、以下のように述べておりました。

最近のテレビの視聴率の低下は、インターネットや携帯の出現によるもので、ネットをしながら、携帯をいじりながらテレビを見るようになった(ながら見)からと言われたりします。どちらにしても、インターネットの出現によって、テレビという最大の暇つぶしメディアは、別のものに興味を奪われつつあるということです。
(中略)
つまり、フリを聞いていないと笑えないネタ(長いネタ)というのは当然笑えないので、他の番組を見るか他のことをする可能性が高くなる。そして、基本的に視聴率は低くなる。他に興味がいってしまう今は特にそれが顕著になってきた。で、視聴率やテレビの笑いのプロフェッショナルであるエンタの神様は試行錯誤の結果、ショートのネタが視聴率を取るということを見つけた。

※引用先=「ショートネタが流行っている本当の理由」(「お笑いテクニックブログ」2009年1月11日)


なるほど、この記事によると、インターネットをはじめとするオルタナティヴ・メディアの出現が、いわゆるテレビの"ながら見"視聴者を増長させており、テレビは、その新たな"ながら見"視聴者を獲得するために、フリが少なくても笑いをとることが可能で、且つ視聴者がその番組内で興味のある情報のみを選択できるような、「1分間ネタ」=「ショートネタ」方式を採用しているとのことです。


さて、この意見も十分核心をついていると思いますが、僕は今回、異なった視点から「ショートネタ」ブームの興隆を考察してみます。

ここで重要となるキーワードは「動物化」です。
動物化」とは、批評家・哲学者の東浩紀さんが『動物化するポストモダン ―オタクから見た日本社会』(講談社新書、2001年)の中で、ゴジェーヴの議論を批判的に検討しつつ、現代=ポストモダンの日本社会を語る上で「キーワード」になるのでは、と提案した概念であります。

はてなキーワード」にもある通り、「動物化」とは、他者の介在なしに各人が欠乏―満足の回路に閉じること=動物的欲求が、消費社会の発展に伴って機械的に満たされる状態が到来することを示しています。
かなり砕いた言い方をすると、「動物化」とは、あたかも食欲や睡眠欲を満たすかのような、他者との触れ合いを省いて即物的に満たすことのできる欲求が社会に全面化することです。


そもそも――第何次かを問わず――<お笑いブーム>自体が、人々が"笑い"を即物的に欲求しテレビを中心とするメディアを媒介にしてその欲求を動物的に満たすという意味で、「動物化」によって成立している、と言えると思います。

しかし、「ショートネタ」の興隆によって定義づけられる<ポスト・第5次お笑いブーム>というものは、他の<お笑いブーム>より一層進んだ視聴者の「動物化」を糧にしているのではないだろうか?これが、ここでの僕の問題意識です。

先に引用した「お笑いテクニックブログ」においても暗に指摘されていた通り、<第5次>以前の"笑い"というのは、フリが非常に重要視されていました。比較的長いフリがあってこそ初めてオチが生きる、という形式が芸人・視聴者双方の側で共有されていたのです。

しかし、2008年以降の「ショートネタ」の興隆は、フリを省いた(非常に短くした)"笑い"を全面化させました。詳しく述べると、強烈なキャラ・あるある系(ものまね)ネタ・(一発ギャグ的)決めゼリフ・手数の多いハイテンポネタといった要素がそれ=フリを省いた(非常に短くした)"笑い"を可能にしたのです。
ここに、視聴者の「結果笑えるなら、フリが(少)ない方がいいっしょ」といったような、ある意味非常に動物的な感性が窺えるのではないでしょうか?
同時に、このこと=「ショートネタ」の興隆は、視聴者の「"笑い"という欲求を動物的に充足したい」というニーズに対して、テレビ局や芸人が見事に適応した結果である、と考えられるのではないでしょうか?

以上の考察は所詮印象論にすぎないので悪しからず。(自分でもまだよくわからないので、反論コメントなど待っています。)


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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